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ダイアリーdiary


「生姜レモンティー」


2011714日くもり。

フランス革命記念日。街はお祭り騒ぎであるが私は独り、ひんやりとした石造アパルトマンのソファの上で毛布をかぶり体を丸めて熱いお茶を飲む。今から200年以上前、民衆の怒りと血で真っ赤に燃え上がったバスティーユの熱気さえこれっぽっちも感じられない今日の空と街の気配、そして私。少しでも気分を変えようと窓のほうへ身を傾け外の世界を探ろうとするが、やはり傷跡が痛むので結局諦めてまたもとのように毛布にくるまって丸くなり、さっき入れたばかりの生姜レモンティーを、ずずっとすする。
 考えてみれば怒涛のような3年間だった気がする。無我夢中で走り続け、気がついたら救急車に運ばれ、緊急手術とまでになっていた。その昔、姉と全身麻酔により意識が薄れ完全になくなるまでの感覚を、順を追って詳細に知りたいね、と話したことがあって、そんなことを呑気に思い出しながら、この瞬間、瞬間、覚えておきたいと必死でもがいてみたが、結局落ちるまでは非常に早く「順を追って詳細に」感じたのはたった2段階。白の世界と黒の世界。とにかく真っ白な光に包まれ、形のある映像や音が耳の裏側に移動し遠ざかっていってとてもいい気分になったかと思ったら、その後は真っ暗な闇の世界にずどんとものすごい勢いで落ちていった。それが私の生まれて初めての覚えている限りの「手術」という体験。お腹に開いた3つの穴は、出口を探し這い蹲るミミズでもいるんじゃないかというようにじくじく傷むが、これで子宮筋腫やのう腫といった悪者をやっつけてしまうのだから、致し方ない。そう、今では現代女性の10人に一人がもってるといわれているこの曲者に、私もまんまとやられてしまったのである。入院中、母がこの種の婦人科の病気に関する本を何冊か日本から送ってくれた。それによると現在こんなに多くの患者がいながら未だ原因不明だとか。免疫に何らかの関係があって、ストレスや疲れからくることも考えられるなどなどと書かれていて、やはりこの何年間の無理が祟ったんだろうと改めて反省してみる。
 2008年夏、シャルトル国際オルガンコンクールに優勝してからというもの、世界各国でリサイタルの機会をいただきヨーロッパ中を飛び回った。オルガニストとしても青木早希という一人の人間としても、これを機に一皮向け、生活も一変した。音楽にその人の性格、歴史、人間そのものが出るとよく言われるけれど、それは嘘とも本当とも言える。ひとつだけ言えることは、音楽は、重ねる時間〔とき〕や体験と共に形を変えるということ。地層と似ている。土や砂、ほこりなどが何世紀にもわたってゆっくりと重なり合って少しずつ形を変えながら、美しく歪な強い地層となっていく。グールドのバッハも年によって解釈が明らかに変化していて、本質はいつもそこにあるけれども、でもこうとも違うかというくらい極端だし。同じ作品を弾くのでも、悲しいときには鍵盤が指にすがりつくようにぬったりと重く、なんとも寂しく泣きながら歌うし、嬉しいときは全身からみなぎる喜びが血液の中で純化して指の先にまで張り巡り、鳴りはじかれる響きはそれこそ瑞々しい。重ねた時間や経験が「今の私」という人間そしてその大部分をしめる「音楽」を形成していることは確かであって、それはどんなに貴重なもしくは他愛のない記憶であったとしても、時とともに色褪せるのである。そんな脆くて大部分は平凡な記憶に、もう一度、豊かな色を添え、息を吹き込む。そんなことを考えながら、私はもう一度バスティーユの炎を思い浮かべ、それと対照的な曇天模様のカンの空を窓越しに見つめながら、もうほとんど
冷めきった生姜レモンティーをごくっと飲み干した。


「まめ蔵」

 
20089

 スポーツ選手がオリンピックを目指すあの熱い気持ち。子供のころから漠然と夢見る大きな舞台。遥か遠い存在であると同時に自分はいつか絶対にこの難関に挑戦しぶつかっていくのだと当然のことのように思っていた。それが私にとってのシャルトル国際オルガンコンクールだった。私は誤解していた。このコンクールが私の最大の目的でありゴールであったのだが、それが実は始まりにすぎないということを、コンサートリストをプリントアウトしてその長い長いリストを見つめながら実感した。
これから始まる膨大なコンサートツアー。さてどこからは始めるかなと、とりあえず自分へのご褒美兼必需品となる車の購入を考えた。車に膨大なお金をかけるという哲学のない私は中古車探しに取り掛かった。日本車、小回りの聞く小型車、燃費が良いもの、という3つのポイントを考えて選んだのが、トヨタヴィッツ、98年型、マニュアル車。
持ち主はマンシュ海峡の近くに住む警察官で、几帳面だったのか古い割には比較的きれいに温存されていて、買った当時は新車と間違えてしまうほどそれはそれは素敵な車だった…☆☆。生まれて始めてのマイカー、深緑の小さく丸みを帯びたその曲線が素敵な自分だけの車…にうっとりしながら、「まめ蔵」と命名した。
今日ではこのまめ蔵、手荒く扱われ「走るゴミ箱」とまで呼ばれてしまうほどのポンコツ車に変貌してしまった。それでも多くのコンサートツアーを共にし、分かち合ったまめ蔵には、かなりの愛着があるし、これから先も手放すつもりはまったくない。

「盲目のオルガニスト、ポール」 


2008年10月26日

コンクールが終わって最初のコンサートはフランス、ブロターニュ地方のサン・ジル・クロワドゥヴィという港町である。私の住んでいるノルマンディ地方のカンから約400キロほど離れた小さな街で、電車で行くとなると何度も乗り換えが必要となる。そこでまめ蔵と旅に出ることにした。
 その日は朝から深い霧が街全体を覆っていた。私は方向感覚というものが生まれてこのかた全くない。それも半端じゃなく、ない。東京の実家は中央線の国立であるが、大学に通っていたころ、自分の駅ですら何度北口と南口を間違えて出てしまったかわからない。大学の敷地内でも迷子になったことが多々ある。大学の奏楽堂(ホール)内で方向を見失ったこともある。レッスン日にオルガンの場所にたどり着けず、既にオルガンコンソール付近に待機されていた私の師匠鈴木雅明氏に「オルガンどこですかー? 先生どこにいらっしゃるんですかー?」と泣きべそをかきながら叫んだ記憶もある。
 そんな私が独りで知らない地に足を踏み入れる(しかも車で)のは、歴史的な「インディペンデンス・デイ」とでも言うべき第一歩であっただけに、事前に相当なチェックが必要であった。予めインターネット上で地図を印刷しておいたが、運転しながら地図を見るという器用かつかなり危険なことなどできない私にとっては、あのときほどナビが役に立ったことはなかった。初めての車の旅でドキドキしていたこともあって、アドレナリンの活躍により約5時間ほどノンストップで走りぬけた。
 コンサートが行われる教会に着くと、そこに小柄なそしてとても優しそうな、なんだか靴の仕立て屋さんのようなムッシューが自信なさげに佇んでいた。そう、彼がオルガニスト、ポール・ジョフリだった。事前にメールのやり取りをしていたが、予想していたポール・ジョフリとはかなり違っていた。
 車を止め、駆け足で彼のほうに向かい手を振って挨拶をしたが何の反応もない。あれ、やはり彼ではないのかなと思ったが、約束の時間に教会の前で待っているのは彼しかいない。自信なく声をかけてみて初めて、彼は私に気がつき、私は彼が盲目だと気がついた。愛想のない不器用そうな奥さんは、その内側に玉ねぎの芯のような白く強くそして純粋なモラルと優しさを備えたとても素敵な人で毎晩とてもヘルシーでおいしいご飯を作ってくれた。点字の楽譜や、点字の手紙の書き方などを教えてくれ、私の名前を点字で打ってくれた小さな固い紙は、4つに折りたたんでいまだに大事に持っている。
 コンサートの当日朝、彼のミサでの奏楽に立ち会った。前日レジストレーションのためのポストイットや楽譜の整理に必死になっていた自分が恥ずかしく思えるほど、彼は視覚的技術を必要としていなかった。いかに私が視覚的な情報に頼っているか。楽譜、音符、文字、ポストイット…。ポールにとって、音楽って100パーセント聴覚なんだ。そんな当たり前のようでいて実はすごく大事なこと、最近忘れていたかも。楽譜にとらわれている悲しい私を思った瞬間…。盲目オルガニスト、ポールとの素敵な出会い・・・。もちろんコンサートは無事終わり、ハッピーエンドなのだけど、あとから思い出すと、自分の演奏よりこういう小さなエピソードの方が記憶に残っていたりする。

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「ダニエル・ロート氏との出会い」 


200910月。

10月も終わりだというのに暑さすら感じる快晴。まだまだ慣れない車での独り旅で緊張していた上に、もちろんクーラーなどない小さなまめ蔵の中は、まるでサウナのようだった。少しでも涼しい気持ちになろうと、「フランス・ミュージック」(クラシックのラジオ番組)を聴きながら汗を拭き拭き現地にむかった。ベルネリー・アン・レは、そう、ブロターニュ。初めてのブロターニュ地方。ノルマンディからブロターニュに入った瞬間、場所が変われば空気も変わるかなと思って窓を全開にしてみたけど、変わったのはまめ蔵の内部の空気が循環され、涼しい空気をすった私の気分。気持ちいい!と深呼吸。

着いたら姉の理津と合流することになっていた。結局、会えたのはお昼すぎ。ブロターニュに来たのだから、やっぱり食べなきゃね!とテラスでギャレットを食べた。天気もいいし、ギャレットもおいしいし、初めてのブロターニュだし…と、うきうきしていたのもつかの間。サンシュルピスのオルガニスト、ダニエル・ロート氏が来ていて、コンサートにも聴きにくるらしいという情報をゲットし、一気に恐れ多い気分に。 しかし、私が思っていたダニエル・ロート氏と実際のダニエル・ロート氏はかなり違っていて、意外な面がたくさん。そもそも話し方がアルザスなまりのとてもゆっくりとしたフランス語で、とてもチャーミング。奥さんは小柄なとってもかわいい方で、彼女とはそれなりに会話が成り立っていたと思う。一方、ロート氏との会話は何かぎこちなく、やっとみつけた共通の主題、「シャルトル国際コンクール」でも軽くずっこけてしまった。彼はこのコンクールのために作品書いていて、選択できる課題曲として挙がっていた。私はロート氏の作品でなくエスケッシュの作品を選んだので、彼の作品は弾く機会がなかった。しかし彼に満面の笑顔で、「コンクールでは、僕の作品を演奏してくれたかい??」と聞かれたときは、本気で嘘をつきたいと思った。まあ、でもそんな気まずい瞬間も、ブロターニュの話やら私がその時に弾いたアンドレ・イゾワール氏の作品のことなどの話で、なんとなく消え去り、最終的には素敵な時間を過ごせた。

この後、ロート氏とはサンシュルピス教会でのコンサート、そして意外なことにセヴィリアでも再会することになるのである。

「セヴィリアの春」

2012311日。 

 初夏並みに暑いドーニャ・マリアホテルのテレビでは、どのチャンネルでも東日本大震災が取り上げられている。とっくにメディアからほっぽり投げられていたのに、311日だということで突然どのチャンネルでもトップニュースとして取り上げたのだ。明日になればまた、誰もが話題にもしないのだろうと思いながら、眉毛をしかめ重々しく話すニュースキャスターをまじまじと見つめて「偽善」という言葉を思い浮かべてしまう卑屈な自分もいる。理津が昨日から何度も電話してきて、車、飛行機、電車気を付けてねと、幾度となく繰り返し、結局出発の朝7時に愛犬ティティとキナコを連れて見送りにうちまでやってきた。そこまでされると逆に何か本当に起こるのじゃないかとかちょっと怖くなったりもしたけど、これが姉妹愛というもの。震災後一年たったスペインのセヴィリアは平凡な暑い日曜日であった。
 現地はノルマンディの真夏並みに暑いとも知らず、もこもこの暖かいコートを羽織って、出発したものの、いざセヴィリア空港に着き、オレンジみたいな太陽の下で空を仰ぐと、実にあほらしい気分になった。
 3月のセヴィリアの日曜日。南へ行けば行くほど人が明るくなるとよく言われるが、これは絶対にこのこぼれ落ちるようなまっ黄色の太陽の笑顔からくるのだ。摂氏28度、観光客で賑わうセヴィリアの午後。長旅を終え、暑く乾いた空とオレンジの木の下でビールとハモンイベリコを頬張る。翌日の悪夢も知らぬが仏、外国でのコンサートの醍醐味はこれだねとすっきりビールを飲み干した。
 翌朝、カテドラルのオルガニスト、アヤラ神父から電話があり、ダニエル・ロートを交えてランチに誘われた。というのもロート氏が今夜このコンサートシリーズの幕開けをするのだ。ちなみに第2夜が私、第3夜がバチカンのあのミケランジェロの天井画で有名なシスティーナ礼拝堂のオルガニスト、ファン・パラデル。すごい順番に挟まれたものだとちょっと感嘆する。(ちなみにこのスペイン人のパラデル氏、とても気さくな方で、コンサート後、私の演奏を大変気に入ってくれ、彼の住むローマに弾きに来てほしいとコンサートのお誘いをいただいた。)というわけで、ロート氏も先日からこの地に上陸していたのである。
 ランチの場所は、2年前にもアヤラ神父に連れて行ってもらった車のガレージを修復したローカル向けの落ち着いた雰囲気のレストラン。彼曰く、観光客は一切受け入れていなく、完全予約制でVIPしかこないとか!? せっかくだから名物を食べようと思って頼んだのはもちろん、トロ。寿司のネタじゃなくて、闘牛のトロ。その日がコンサートでなくて本当よかったってぐらいに、思う存分食べて飲んでしまって、スペイン人がシエスタが必要なのはコヤツ(トロ)のせいだと確信した。
 と、ここまでだと素敵なバカンスと何ら変わらないのだけれど、ここから先が旅芸人的リズムになっていくのである。結構長いシエスタのあと、カテドラル内の観光時間とロート氏のコンサートの関係で、リハーサルは夜11時から。どちらかというと朝方の私には、これが結構つらいのである。カテドラルのオルガンはむしろ「視覚的に凄い楽器」であった。まさにスペインのこれでもかというほどのこてこてのバロック調ファッサード。あれだけ過剰に水平トランペットがついて(むしろ「生えて」いるというべきか…)いればものすごいデシベルの音量だろうと思いきや実はこれが案外見た目より控えめなのである。両サイドに聳え立つオルガンはそれぞれ様式の違った楽器で、おおざっぱにいうとバロックスタイルとロマン派スタイルの楽器。裏からみても表からみてもそれはそれは立派な楽器なのだが、これを一つのコンソール(鍵盤台)で弾いてしまうのだから、現代のテクノロジーというものはすごいと思う。つまり一つのコンソールで二つの楽器のパイプを鳴らすことができるこのコンソールはもちろんエレクトリックで、楽器が高い位置に設置してあるのではなく、下の客席と同じ位置に置かれている。しかもどちらかというと右寄りつまり右側のオルガンに近い場所に鍵盤が位置しており、自分側のオルガンばかりが異様に大きく聴こえるので、バランスのとれた音色を作るのが非常に困難であったこともあり、レジストレーション(音色の組み合わせ)は夜中・・むしろ明け方、4時まで続いた。結局リハーサルはレジストレーションの時間で費やされ、曲を通すことさえできなかった。急いでホテルに戻ってベッドに就いたが、なかなか眠れず、頭の中で「眠れない→明日ぐったり→集中できない→焦る→コンサートうまくいかない→また焦る→眠れない」の終わらないループに相当苦しんだ。結局お風呂に入ったりなんなりして、寝つけたのが朝日も昇り切った午前8時ごろ。そこから一応3時間ぐらい寝た。最近の本番でこんな精神状態になったことはなかったので、やっぱり現在進行中の“治療”が原因かなとも考えながら、最悪なお昼を過ごした。セヴィリアの街をのろのろ歩き、グアダルギビール川沿いのカフェでコーヒーを飲みながら、向こう岸の街並みを眺めていたら、あまりに疲れていたせいか、涙がぼろぼろ出てきてとまらなくなってしまった。一通り泣いたらなんだかとっても楽になって、本番前のお決まりのパスタを食べて、デザートのティラミスまで食べて、ホテルでこてんと眠りこけることができた。午後5時、むくっと起き上がって本番の準備。つまり「おめかし」の時間。午後6時、カテドラルでの最終リハーサル。昨日(・・・というか、むしろ今朝か)のリハーサルでは曲を通したり楽器に慣れる時間がゼロに等しかったので、6時からコンサート開始時刻の30分前、つまり8時までの2時間のリハが勝負だと思って、張り切って行ったものの、またしてもトラブル発生。いくら今日のテクノロジーの発展は目覚ましいとは言え、エレクトリック・コンソールはなにかとトラブルが多い。第一鍵盤は音が鳴るものの第二鍵盤、第三鍵盤、第四鍵盤は、どの鍵盤を押しても無音。結局オルガン・ビルダーが来るのを待ち、リハーサルを始められたのが19時過ぎ。それでもないよりはましということで、一時間弱の貴重なリハーサル時間を目いっぱい集中し、荒馬を馴らす如く巨大なオルガンを必死で体に馴染ませる。コンサートはアヤラ神父の長い長いご挨拶から始まり(少なくとも20分以上は話していたように思う)、聴衆の反応は良く、ツンと張りつめた緊張と集中の中には聴衆の呼吸や暖かさすら感じ取れた。これがエレクトリック・コンソールの一番の醍醐味だと思う。つまり教会においてオルガンという楽器は天から降り注ぐべく、その多くは高い場所に位置しているため、普段ほとんどオルガニストが見えることがない。エレクトリック・コンソールの出現によって、オルガニストが観客の目の前で演奏できるようになり、演奏者と聴衆の距離が一気に狭まったのである。すると、私たち演奏家は聴衆の反応というのを良くも悪くも敏感に感じ取ることができるのである。これについては賛否両論だが、私は「演奏」というものは、やはり受け取る側の人(聴衆)と捧げる側の人(演奏者)との密接な関係から成り立っており、両者があって初めて、意味があると考える。そういう意味で今回の演奏会は、充実したものであったと思う。私と聴衆との間で確かにコミュニュケーションがあり、音楽を分かち合えたと感じた瞬間があったということである。コンサート後、セヴィリアに10以上住むという日本人の観光ガイドをしている男性がご挨拶にいらしてくれた。もちろんスペイン語がぺらぺらの彼は、コンサート中、各曲ごとに小声で観客が感嘆の声をもらしており、非常に反応が良かったとおっしゃってくれた。結局演奏家の自己満足で終わってしまうオルガン・コンサートも少なくない今日、聴衆と私が一体とまではいかなくとも、確かに「近く」なった瞬間、これを大事にしなきゃいけないんだと胸が熱くなった。
 乾いた空、過剰な水平トランペット、オレンジ色の太陽、グワダルギビール川の涙・・・。これが私の「セヴィリアの春」。